ある体験、もしくは実験

今年の正月、自分にお年玉を呉れてやった。足首と手首に着ける錘(ウエイト)で、各々脚に500g、腕に300gで計1.6kgだ。思いつきは、日が短い季節にフィールドワークをすると、走る時間が取れなくて仕方なしの代替案であった。フィールドワークは勿論、風呂とランニング以外では常に着けるようにした。ドラゴンボールの悟空に因んでDB方式と名付けたこの成果は8週間で表れた。いつもの坂道を含むペース走12.7kmの自己新(ベスト)が出た。レースではなくペース走で出たことは自力がついたと思う。

1.6kgと言えば私の体重の2.9%。タヌキなどに着ける発信機とほぼ同じ重量比率だ。その錘を四肢に分散して着けるのと、首だけにかかるのとでは負担度が違うだろう。しかも、(贅沢な意味ではなく文字通りの意味で)食うことには困らないお気楽な私と、毎日が(これも文字通り)生きるか死ぬかの野生生物とで比較すべきではない。しかし、錘を着けて生活してみて案外すぐに慣れるのだとも実感した。始めは戸惑った。斜面を登り降りするフィールドワークの後、錘を外して走りに出たら、身体が軽く動きが素早くなるDBとは違って、筋肉に溜まった乳酸で脚が重い。年末年始で体が鈍(なま)っていた所為もあろうが、十日程は何かと負荷を感じたものだ。が、10週間を過ぎた現在では、もう一セット買って着けられないものかと思っている。体重の5.8%の負荷はどんなものなのだろうか。勿論サイヤ人でない私は錘を着けて走ったりはしないけれど。

よく聞かれる。なぜ走るのか、鍛えるのか、と。邪魔くさいときは「中毒だから」、少し心を許せるときは「前向きの逃避」とか言いながら自分でもよく分からない。暑さ、寒さの許容性を保ちたいのも同じ理由からだと思うが、野生生物や武道家に深い憧れはあるものの、それが全てとは思えない。暑さ、寒さに耐えれば化石燃料の節約になるが、体を鍛えることは食糧を余計に消費することになる。(ああ、このように生きること自体が無駄なのか。それに見合うものがあるのだろうか…。)

フィールドワークは、トレーニングと似て非なるものだ。本業(ライフワーク)でもあるフィールドワークは、普段はそれ程体力が要るわけでもなく、単調な孤独な作業である。しかし、時折、機転や反射神経や方向感覚や平衡感覚や瞬発力や持久力を必要とする、油断ならぬ代物でもある。対して、余暇のトレーニングは、大した不安もなく心身を極限近似状態にできる贅沢である。これだけ走れば(有限のこの距離、この時間で)、どれだけ苦しくても終わる。結果は過程と区別がつかず、成果の自己新は目的でさえない。フィールドワークは、私にとって研究活動の根底にあるものだから、目的に見合う手法を取り納得できる経過があって満足できる結果が得られ、初めて成果となるものだ。

トレーニングは、己のストイシズムの思い上がりを自覚しつつ、身体能力の発揮において刹那的享楽に耽ることだ。どこにも褒められる部分はない。しかし、野生生物に対する引け目を持ち、選ばれることのない、過酷な淘汰* を経験できない者が、心・気・力を純粋に高めようとするのはかわいいではないか。私の求めるのは、あくまで純粋なトレーニングである。スポーツは、ルール次第でどうにでもなり、余りに文化的で、私はその人間臭さが好きではない。(勿論、ルールを超越した凄い人はいる。)

この初夏以降に、テレメによる個体追跡を久しぶりで行える目処が付いたので、鈍っているだろう色々な感覚を取り戻すためにも、ちょっと気合を入れて鍛え直したい。とりあえず、足首・手首に変なものが着いている私を見ても、後ろ指は差さないで…。


*繁殖しないという自己選択圧はかけられる。

(『たぬき道』42号 2004年3月)