計り知れぬタヌキの受難と能力

3月12日18時18分、タヌキの信綱が県道の側の古い納屋にある巣穴から出てきた。そして19時前、二級河川の一宮川にかかる県道85号の橋を渡り、そのまま川沿いに進んだ。21時過ぎには稲妻が光り、これ以上近くに来たら今日は打ち切りかなと思いつつも、川のこちら側に彼が来るのを初めて確認したところだったので、ひやひやしながらアンテナを回した。稲妻はそれっきりだったが、23時前には雨が降り始めた。信綱は、川の近くの果樹園でしばらくじっとしていたが、急に県道を渡ったらしく、発信音が弱くなった。慌てて車に戻り、後を追った。なんてことだ。国道の方へ行く。

深夜の国道128号線を、こんなに多くの車が疾走していくとは今まで知らなかった。車を停める適当な場所もなく、降りしきる雨と頻繁に通る車とで正確な位置が測れない。いらいらしながら国道を行ったり来たりした二時間後、諦め、帰宅した。車に轢かれるのは容易いなと、実感した。

翌日13日の昼には、信綱は橋の近くには戻っていたが、まだ巣穴とは反対側の川沿いの薮の中にいた。そしてその夜は、二兎ならぬ二狸を追うことにした。約15分毎に龍馬の位置を測り、およそ二時間に一度信綱の方も位置を確かめることにした。

信綱は、19時台には一旦こちら側に戻ってきたので、ほっとしていたのも束の間、21時台にはまたもや国道の際に行ってしまった。交通量は大変なものだ。天気も徐々に悪化して、稲妻が頻繁に光り始め、雷鳴も近づき、真夜中には雨も本降りになってきた。雷はテレメの大敵だが、こちらも意地になってきた。雷が自分に落ちる確率と、信綱が交通事故に遭う確率とでは比較にならないのだ。

龍馬は前週にしばらく行方が分らなくなっていたので、こっちの方も気が抜けない。(この行方不明を“脱藩”と称していた。)彼が健脚振りを発揮して尾根を越えていくのを、こちらは勘と車とで先回り。工事のための道路閉鎖が恨めしい。そもそも信綱が睦沢に嫌気をさして移動したのも、このところの河川改修工事や不必要としか思えない農道の舗装工事なのかもしれないのだ。

信綱は、23時台、1時台、3時台、5時台も、国道からすぐのところにいた。移動しているのだけが生きている証である。しかし、その移動距離は短い。14日の昼も国道から僅か数メートルの薮にいた。

その日は罠掛けで、夕方13個の罠を開けた。そして20時前、一本の電話があった。長南町の広報誌で私のことを読んでいた人からで、発信機を付けたタヌキが撥ねられるのを目撃し、発信機のアンテナを持って捕まえようとしたが逃げていったと言う。そして再び撥ねられたそうだ。私は、すぐに現場に向った。20時20分、受信アンテナを外しても受信できるところまで近づき、再びアンテナをつけて方向を精密に出してから薮に踏み込み、ヘッドランプで足元を照らして進んだ。うずくまった信綱の灰色の背中が足元の明かりに入った。とっさに抱えようと手を伸ばしたその刹那、信綱は走り去った。目撃した人の話では、彼は口から相当の血を出していたと言うことだったが、夜にはとても手では捕獲できないと、心を残しつつ帰宅した。最寄りの獣医さんに電話をして、翌日日曜の在宅を聞いたら、朝8時に家を出るので、それまでであればということだった。0時前に一通り罠を見回り床についた。

翌15日、いつものように夜明けの5時半から罠をチェックした。一つ目の罠でタヌキが捕獲されていたが、発信機の取り付けなどをしている時間はない。(ごめん。)牛舎へ罠ごと持ち帰り、食物と水を置いて、信綱のところへ戻った。さすがに日曜の早朝は交通量が少ない。なんと彼は国道の、昨夜とは反対側の深い笹薮の中にいた。人間では分速2メートルでしか進めないほど密集している薮を、掻き分けてはまた外に出て、アンテナを回して信綱の位置を確認するのを二、三回繰り返して、これでは彼にストレスを与えるだけだと途方に暮れる。二人以上での挟み撃ちしかないかと、7時になるのを待ってから長生村在住の大学生(外大モンゴル語学科)の大橋君に電話をした。幸い、すぐに出てくれるとのことで近くの駅で彼を拾った。しかし、二人掛かりでも信綱の方が機敏に動く。私は野生タヌキの体力を過小評価していた。二度車に撥ねられた者が動けることだけでも信じ難いが。取りあえず静観することに決め、膝まで水に入ってちゃぽちゃぽするゴアテックスの靴と、笹葉まみれの頭だけを成果に、帰宅した。そして、新しいタヌキ(周作)の体側を取ったり発信機をつけたりするのを、大橋君に手伝ってもらった。(ただでは帰さない。)

夕方、周作を捕獲場所で放逐してから、信綱、龍馬、周作の三頭を二時間毎に位置確認して過ごした。そして、次の日(16日)、延び延びになっていた土壌動物サンプリングの為、昼間は土掘り・採集に汗を流した。それから信綱のいる薮に餌をばら撒いて罠を仕掛けた。せめて何か口にして欲しい。この薮なら野良犬も入って来られないだろうし。

18時前から周作に張り付く。20時過ぎに動き出して一安心。生き物相手の仕事には、常に死の不安がつきまとう。そうして、23時29分のこと、川の方へ移動した周作を追っていてふと周波数を信綱に合わせてみた。入った!! 川のすぐ向こう側だ。帰ってきた。信綱が帰ってきた。

この時なぜ受信機を、九分九厘諦めていた信綱に合わせたかは説明がつかない。深い森を歩いていて、何かを感じてふと見上げた木のてっぺんにヤマアラシを見つけたときも、理屈ではない何かとしか言いようがなかった。おそらくいつもは99%以上気づかないでいるこの「何か」は少し超能力っぽいが、信綱の助けには全くならないのである。無力感はさらに募った。

信綱は、朝には元の巣穴に戻っていた。お帰りなさい。

(『たぬき道』 20号 1998年3月)